原田マハさんは、小説家の方です。
美術をテーマにした小説をかかれています。
分野としては珍しいですね。
どうしてそんなことができるかというと、数々の美術館に勤められています。馬里邑美術館、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館。
ニューヨークの近代美術館っていうのもすごいですね。
ピカソの絵などが置いてある場所です。
そういう場所で研鑽を詰まれ、小説家になられたのですね。
また、「マハ」という名前も珍しいです。
マハトラ・ガンジーからくる、「マハ」か? 違うようです。フランシスコ・ゴヤの「着衣のマハ」「裸のマハ」からペンネームとしてとったとのことです。
フランシスコ・ゴヤは、スペイン最大の画家といわれる、巨匠です。その絵はとても迫力と美しさがあります。
なんだか、巨人がとってもかっこいいですね。
「着衣のマハ」
これはどんな絵でしょうか?
おー、これは、みたことがある絵です 🙄
これが「マハ」さんなんですね~。
超有名人ではないですか!!
そして、もっと調べると、ピカソには奥さんもいて、マリー・テレーズ・ワルテルという愛人との間に「マハ」という子供がいました。
この名前も由来だということです。
すると、先ほどの絵は、ピカソの愛人の子供ということになりますね。
ニューヨーク近代美術館にもピカソがありましたので、つながっているんですね。
なんだが、出だしから美術館っぽくなりましたが、原田マナさんは結婚されているのか、お兄さんはどういう人か、そして、輝かしくユニークな経歴を持つ、原田マナさんの出身高校や大学などの経歴について調べてみました。
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原田マハさんは結婚されているか
原田マハさんは、1962年生まれです。ご結婚はされているのか、ご主人がいれば同業者なのか?とか興味ありましたので、調べました。
本人のHPによると1990年に結婚されています! 28際の時ですね。
ご主人の職業は不明です。たぶん不明なので、同業者ではないでしょう。
ご主人の給料があったので、結婚されたその年にボランティア的な民間のアートマネジメント学校のディレクターになったそうです。
お子さんはいるのでしょうか?
良くわかりませんでしたが、いないかもしれません。
本人の過ごし方が、「月の半分は、ほぼ1日中、蓼科にある自宅書斎。もう半分は旅先、午前中、ホテルの部屋。」となっているので、子供がいる過ごし方ではないと思います。
そして愛犬と遊んでリラックスしているようです。
自宅が蓼科....高原地帯ですね。ご主人はサラリーマンとかではないのかもしれません。
原田マハさんの兄について
原田マハさんには、お兄さんがいるそうです。
そのお兄さんとは幼少の頃から競い合うように本を読んでいたそうです。
お父さんは、百貨辞典や美術書などのセールスをやっていました。
これですね 😛
家庭で自然と文章や美術に興味をもっていったのでしょう。
そんな中でお兄さんは、1987年に、小説家としてデビューされて、その事実に仰天されたそうです。子供の頃からの夢をかなえたところがすごいと。
デビューするには、もちろん出版社から認められる売り上げを出せるところまでいかなければいけません。新人賞をまずとって。
お名前は、原田宗典さんといいます。
やはり、1984年に、第8回すばる文学賞に佳作入選されてます。マホさんが22歳の時ですね。ちょうど大学を卒業するころ。
そして1986年に小説「優しくって少しばか」を出されています。
お友達には、政治学者の山口二郎で、高校時代の付き合いだそうです。
兄妹とも小説家とはかなりめずらしいパターンですね。
兄妹とも音楽家っていうのは割りとありそうですが。
ふたりとも百貨辞典や百貨辞典の話を年がら年中、父親から聞いていたのでしょう。
原田マハさんの出身高校や大学など学歴を調査!
原田マハさんは、東京の小平出身ですが、お父さんの仕事の関係で、岡山に引っ越されました。
岡山といえば、キビだんご。
出身高校は、私立山陽女子高校です。
ここは、今は中高一貫校ですが、高校から入られました。
集英社が日本全国の可愛い制服を調査しましたが、この学校のものも選ばれました!
私立山陽女子高校
水泳選手の木原光知子や、宝塚、女優などを輩出している学校です。
偏差値は42-60とかなり広い分布で、これもめずらしいですね。
そして、高校なのに「MUSIC」コースというのがあります!
なんともユニークな学校です。
ここで大きな刺激を受けたのではないかと思います。
そして関西学院大学文学部に入ります。
この時から小説家にはもう興味があったのかもしれませんね。
最初は、ドイツ文学科に所属したけど、日本文学科に変わったそうです。
ドイツ語が難しかったらだそうです。
ドイツ語って男性名詞と女性名詞があり、英語より複雑で、覚えることが沢山あるから結構最初から挫折するんですよね...ウームラウトとか。
でも、文系ではないですが、この時代の理工系の場合の大学生の場合は、ドイツ語とる人多いんですよ。
なぜかというと、ドイツの技術が発展していて、日本と同様に、カメラとか、メッサーシュミットという航空機、自動車メーカなどがあり、彼らは英語の文書は作らないので、ドイツ語を勉強する必要があると教わりました。
ちなみに1980年代後半に就職していたら、ドイツの技術試験装置があり、その文書は、ドイツ語のみで記述されていました。
ドイツ語とる人はこの時代多かったと思いますが、原田マナさんと同様にメゲる人も多く、また結局、技術の世界でも、医療の世界でもドイツ語を使うことはなくなってきて、ほぼ英語なので、まぁ、専門がドイツ語から日本語に変わるのも良かったのではないかと思います。
でも、大学4年の時にグラフックデザインの専門学校に行ったとのことです。
大学通いながらできるんですかね?? お金もかかります。
たぶん夜学でしょうか?
おそらく文学部では就職が難しいと思って、専門学校に言ったのではないかと思います。
ただし、1980年代ですので、日本社会はバブルまっただなかで、就職はほとんど問題なかったハズですが。 😉
結局原田マナさんは就職せずに、バイトしながら専門学校に行き続けたそうです。
現代アートに目覚めたのは、大学卒業後1年たってからということですから、そのあとの吸収力というか、活力はスゴイですね。
ただ、バブルの時代なのに就職できなかったことは、きっと肩身の狭い思いもしたのではないでしょうか?
大学と関係ないものの職業につくというのはなかなかないことだと思います。
でも、大学自体の文学部も長い目でみれば、小説家になるための準備にはなりましたね。
「美術+小説家」ふたつで成功されるとはすごいことだと思います。
ちなみに原田ナマさんの代表作で人気が高いのは以下の小説です。
まとめ
原田マナさんについていろいろ調べていくと、美術と小説、その出会いなどについて興味のある話がいろいろとありました。
マナさんと聞いたら、アノ絵のイメージがすぐ沸くようになりました。
今後の活躍もお祈りいたします!
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