父から聞いた東京大空襲とポナペ島の話【第二次世界大戦】

原爆が落ちと時の話は、思い出して以下の記事にしました。

母から聞いた原爆が落ちたときの話

この時に、父や叔父からは戦争中の話をほとんど聞いてなかったので、8月のお盆の時に帰省した時、思い切って父に聞いてみました。

父は1924年生まれで、介護の状態になっており、聞き出すなら早いほうが良いと思ったからです。

そうすると、今まで知らなかった父の過去や戦争中の話を聞けました。

記録として残したいため、記事にしました。

 

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きっかけ

米国に住んでいるいとこを、本籍のお墓の件で、ずっと探してました。

いとこが長男の息子で、本籍地にてお墓の管理をすべき人で、父親から探すように頼まれたためです。

昔の電話にかけても別の人のようで、facebookやネットでさがしても出てきませんでした。

では、いとこの子供はどうかということでネットで調査しました。

すると結婚して名前が変わってますが、本人の写真が一枚だけ、ネットにありました。 その子は、私が若い時に子供でしたが、顔はそっくり、そしてfacebookアカウントもあり、そこにアクセスすると、いとこの名前ものっていました。

やっとみつけて、いとこと、いとこの子供二人とチャットをかなり長時間しました。

いとこの子供が夏休みで日本にいるとのことで、20年ぶりに東京で会うことにしました。

そこで聞いた話だと、父親の兄(いとこの子供からみると、祖父)は、体調悪く、戦争中は、軍隊でも一番下の階級で横浜にいました。

私の父親が横浜に行ったとき、階級は、上の方で、そのことを父親の兄が結構、怒っていたのだそうです。

そういう話を父から聞いたことがないので、帰省した時に、その時の話を聞いてみることになったのです。

 

父が軍隊に入るまで

父親の兄は、一流大学を当時出ていましたが、父は、工業高校卒でした。

当時すでに就職して九州にいたとのことです。

そこで徴兵されましたが、その時に、幹部候補生の試験を受けたとのことです。

こういう話も初めて聞きました。 そして見事受かったとのことです。

よって、幹部候補生の訓練を受けるために、東京の国立に出向いたとのことです。

その時、父の兄のいる横浜を経由して向かったそうです。

 

東京赴任と空襲中の行動

幹部候補生の学校に行くと、防空壕(土豪)を作るために土を掘る作業があり、特に大きな木を運ぶのが大変だったとのことです。

木がまっすぐでなく、波打っているので、ちょうど重いところにあたると、他の人の分まで背負うのでかなりきつかったと。

注) アイキャッチ画像ば防空壕です。こういうものは、私の故郷の山口でも子供の時に山に結構ありました。でも最近では、危ないので閉鎖あるいは取り崩したようです。私が子供の時にはその中に探検ごっこで遊んでました。自分の子供に見せられないのが残念です。

 

軍隊の上官は厳しい人でしたが、父は、うまく話しをして、気に入られたとのことです。気に入られてない、話し方とかが悪い人はなぐられていたとのこと。

 

食事については、軍隊の食事は良かったそうです。米は食べれませんでしたが、麦と、あと肉や魚もあったとのこと。

軍人がお腹を減らしていたら、戦いにならないので、優遇されていたと。

また、親戚の人の家にいくと、食事でそこそこのごちそうは出たそうです。

お腹をすかしている軍人しかイメージがなかったでしたが、こういう話は新鮮でした。

そして、B-29がしょっちゅう空襲に来たそうです。

B-29が来たら、土豪の中に逃げますし、夜なら、明かりが漏れないように暗幕を張るのですが、この暗幕を張るのが結構面倒だそうです。

何度も隠れるのは嫌なので、本当は禁止されているけど、外に出て爆撃の様子や空中戦の様子を見に行ったとのことです。

 

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「これを見るのが結構面白かった」

といってました。

「えっ」という感じです。

 

ゼロ戦がB-29に体当たりしにいって、当たる前にパラシュートで逃げている

B-29がどの方向にいって爆撃するかは、わかるようになったきたので、安全な場合は爆撃の様子を見ていた

とのことです。

不謹慎な気がしますが、これらを見るのは興味があったとのことです。

そういえば、広島にいた祖母も、B-29がくると、逃げるのは飽きたので、爆撃を見てたとのことです。

そして、「花火みたいで結構きれい」

と言っていたのを思い出しました。

 

普通は、B-29一機で来ていたようです。沢山来ているイメージでしたが。

3月10日の下町爆撃、これが一番ひどい爆撃だったそうで、この3月10日という日は父は今でも覚えてました。(今日の出来事は忘れたりするのですが、昔の記憶は鮮明に持ってました)

父のいる国立は、東京都心から離れていたので無事だったとのことです。

 

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そして終戦を迎えます。

その時の心境は、

「やっと終わった。良かった。これで暗幕も張らなくて良い」

と、うれしい心境だったといいます。悔しさはなかったようです。

「でも、アメリカにひどいことをされると心配しなかったの?」

と聞くと、

その心配よりも終わったことの方が嬉しかった。結局、アメリカからひどい目にあわされてない」

とのことです。

そしてぎゅうぎゅうの汽車を乗り継いで、九州の職場まで戻って行ったとのことです。

でも、肉親でなくなった人がいないので、こう思えたのかもしれません。

 

叔父のポナペ島に言った時の話

そして、叔父は唯一戦地に赴いていったので、叔父の話も思い切って詳しく聞いてみました。

叔父は医師でした。

叔父は、金沢から出兵することになり、まだ結婚したてだったようです。

そして出兵は秘密裏に夜中の3:00頃することになったとのことです。

出兵をいつにするかは秘密にしておかないと敵に襲撃されるとのことです。

でも噂で出兵の日時は分かっていたとのことです。

父は、その叔父の新婚の妻と一緒に、その出兵を見に行ったとのことです。

医師なので、軍隊行進では最後の方にいたとのことです。

新婚の妻は、悲しくなり、その軍隊行進している叔父にしがみつきにったとのことです。

家に帰ってから、父も、死ぬんではないかと思い、ずっと泣いていたとのことです。

すると、長男より、「戦争に行くから死ぬとは限らない。そんなに泣かなくても良い」となだめられたとのことです。

叔父の向かった先は、ポナペ島です。

ミクロネシア連邦で、グアムの西南、日本からは、南の方向に距離にして、3000~4000キロです。飛行機でものりついで、11時間もかかる場所です。

 

日本からは、潜水艦の部隊で出発したとのことです。

「え、こんな遠い距離を??」

と思いました。でも、そういう技術が日本にはあったのですね。

しばらくすると、電報により、ポナペに無事着いたことが家族に連絡されました。

無線技術は日本は高かったので、暗号で送信したのでしょう。

家族は少し安心したとのことです。

ポナペでは、米国との戦闘はなかったとのことです。

ただ、食料に困り、カエルやカタツムリとか、食べれるものは何でも食べたとのことです。

テレ朝の番組のナスDもカタツムリを食べていたので、思わず思い出しました!!(笑)

そして終戦になり、無事、戻ってきたとのことです。

 

まとめ

父の兄弟は、皆、もうなくなってます。

戦地で戦闘になることはなかったのでかなり恵まれていたと思います。

父の長女は、満州まで夫と出征し、無事引き上げてきたとも聞きました。

やはり、今思うと、戦争に行って、性格が豹変してしまった祖父の話は直接聞きたかったと思います。本人は、恐らく語るのはいやでしょうけど。

私が死ぬとこれらの話も誰にも知られないですが、今日は、ブログという手段があるので、記録を残せたことは良かったと思います。

二度と戦争がないような、平和な世界になることを望みます。

 

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